万博な日々(大阪万博と博覧会)

EXPO'70 大阪万博やその他、博覧会についてのブログです。

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昭和41(1966)年
9月1日   都道府県知事等157氏に参与委嘱
協会は全国的な万国博協力体制の一環として、都道府県の知事、議長、指定都市の市長、議長、商工会議所連合会の地域別代表者、自治団体全国組織の代表者など157氏に参与を委嘱した。

9月4日   モントリオール万博 (EXPO'67) の親善使節 来日
マックス・コンラッド氏 (当時63) とデービット・シェフラー氏 (当時41) が小型機で来日。万国博協会にモントリオール市長のメッセージを手渡した。
EXPO'67 親善使節 (2)

9月5日   外務省、閣議決定に基づき、外国政府、国際機構に公式参加招請状を発送
参加招請状は、赤い合皮ケースに ①石坂会長のメッセージ ②参加案内 ③一般規則 ④一般分類表 ⑤テーマ ⑥コンストラクション・ガイド (建築案内) ⑦万国博覧会の概要  と7種の書類が同封されていた。
大阪万博_海外参加招請
公式参加招請状

9月5日   協会 : 会場建設関係入札参加資格審査申請受付
昭和41、42年度建設工事、設計、測量等に関する入札参加資格審査申請。10月15日に締め切った。

9月6日   会場計画委員会 : 第3次会場計画案提示
《土地利用計画》一般展示ゾーン、シンボルゾーン、レクリエーション・ゾーンについて
《人口環境設備》1ヵ所の冷却プラントで作られる冷水を、地域全般にわたって供給する「地域冷房」方式が採用される。その他、梅雨と盛夏の対応として「人工気候」化が考えられた。
《場内交通計画》《造園計画》《場周計画》
《万国博基幹施設計画》お祭広場、装置道路 (動く歩道) 、サービス施設などについて

万博会場基本計画
会場計画委員会に第3次案を提示

大阪万博会場地図
会場地図

9月13日 愛知県、名古屋市 他「万国博協力機関設置準備会」
愛知県と名古屋市、名古屋商工会議所、中部経済連合会など在名8経済団体により、万国博協力機関設置準備会が中部経済連合会事務所で開かれ、「万国博中部協力会」を設立することが決定、10月初めに発足された。因みに行政機関と経済団体が一体となった万国博協力会は、これが初めてだった。

9月14日 海外招請記念在日大使公使招待レセプション

在日大公使を迎えたレセプションは、東京・帝国ホテルにおいて開かれた。会場正面に日の丸と万国博旗が掲げられ、石坂会長、堀田・井上・永野 副会長はじめ協会役員が入口にずらりと並んで、次々と現れる各国大公使を、一人一人握手で出迎えた。この日出席した外国大公使は、アメリカ、ソ連 (当時) など45ヶ国から約180人、日本政府・財界の要人などを加えると総勢約250人で、場内に設けられた博覧会会場案内図の大きなパネルの前には、石坂会長自身が立ち、出席者の質問に答えた。博覧会協会として初めての大公使招待だったので、当時に内遊1日目を終えた佐藤 (栄作)首相もその足で駆け付けた。
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会場に駆け付けた佐藤首相 
万国博レセプション
会場に駆け付けた佐藤首相 (左写真左)
万国博レセプション
レセプション風景

9月19日 徳島県 万国博推進委員会 初会合
美化運動の展開、観光事業の強力な推進、出展参加に関する問題などが討議された。

9月20日 和歌山県 万国博推進委員会 初会合
事業を進める方法として、出展、観光、交通の3専門部会を設置することを決定。

9月21日 外国人記者招待レセプション
大公使招待レセプションにつづいて、外人記者団 約200人を東京会館に招いたパーティが開かれた。目的は外人記者団に万国博の特徴を充分理解してもらい、自国に向けてPRしてもらうものだった。
主な招待記者:元日本外国特派員協会 (FCCJ) 会長、ヘッセル・ティルトマン氏/ジブラルタル・ポスト紙 (当時) 、ジェイムズ・R・ロウエル氏/マックグローヒル・ワールドニュース紙 (当時) 、マービン・ペタル氏
大阪万博_外人記者団パーティ
会場計画図を説明する堀田副会長 (右) 新井事務総長 (左)

9月22日 閣議:日本万国博政府代表に奥村勝蔵氏(外務省顧問:当時)任命を決定
政府は、日本万国博覧会における対外交渉の最高責任者である政府代表の任命を急いでいたが、奥村勝蔵氏を起用することに決め、9月22日の閣議で了承を求めたうえ、正式発令した。
日本万国博の一般規則による政府代表の任務:①外国の参加者に対する約束の履行を保証すること ②展示物品の物的損害に対する保護について必要なすべての処置を執ること ③外国の参加者が施設またはその集団名に、我が国に関係がある地理的名称を使用する場合は、これを承認すること ④博覧会の準備状況等について博覧会国際事務局に報告すること ⑤参加国政府の代表者会議を招集し、その議事に参加すること
奥村勝蔵
奥村勝蔵氏 (1903 - 1975)

9月27日 モントリオール万博 (EXPO'67) の親善使節 来日
カナダの騎馬警官、E.J.リリー軍曹 (当時37) とデイル・ヘンリー伍長 (当時31) が万国博協会を訪れ、両国の万国博の成功を祈った。
EXPO'67 親善使節 (1)

9月30日 協会 :国内民間企業、団体などに出展参加招請状を発送
出展参加招請状 (国内) には、参加希望調査アンケートが同封されており、翌日から続々と解答が寄せられることになる。当時の出展機運は高まっていたようだ。

以下次回に続く

昭和41(1966)年8月頃
博覧会協会は、昭和15(1940) 年に開催を予定しながら中止となった「紀元2600年記念 日本万国博覧会」の未回収チケットの所有者を日本万国博に特別ご招待という形で対応することを発表した。
1、入場券綴り1セットにつき、引き換えは大人券1枚 又は小人券2枚だった。
1、博覧会期間中にチケット・ゲートで旧入場券を提示すると招待券が渡された。
紀元2600年記念 日本万国博覧会
紀元二千六百年記念 日本萬國博覧会 抽選券付回数入場券 (12枚綴り 1冊 10円)

昭和13年3月10日から15日間、第一回前売り券840万枚が販売されたが、同年7月15日に延期が決定。昭和14年4月1日から払い戻しを受け付け80%が払い戻しされたが、戦災 (日中戦争) などのため残りは未回収だった。
紀元2600年記念 日本万国博覧会
抽選券付回数入場券販売風景
紀元2600年記念 日本万国博覧会
抽選券付回数入場券販売風景 2

当初、協会は昭和15年万博の「社團法人日本萬國博覧会協会」と「財団法人日本万国博覧会協会」は別個のもので、債権債務の引継ぎは無いとしたものの、当時の入場券は金額もかなり高く、購入者は万国博のよき理解者であるとも見られるため、積極的に招待するという特別処置を講ずることになった。日本万国博覧会 (EXPO'70) では3,077枚が使用され、後に2005年日本万国博覧会 (愛・地球博) でも使用が認められた。
※「社團法人日本萬國博覧会協会」は東京府、東京市、東京商工會議所、社團法人東京實業組合聯合會、財團法人日本産業協會、日本博覧會協會、神奈川懸、横濱市、横濱商工會議所及び社團法人横濱實業組合聯合會の十団体が組織したもの。
日本萬國博覧會
日本萬國博覧會ポスター図案

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日本萬國博覧會行進曲 歌詞


万国博覧会テーマソング
日本萬國博覧會行進曲

紀元二千六百年記念 日本萬國博覧会
昭和15年3月15日より8月31日まで、東京市 (現:東京都) の月島4号地 (現:晴海) と5号地 (現:豊洲) をメイン会場 (約150万平方メートル) として開催する計画がたてられた。第三台場公園、横浜会場 (山下公園) も会場予定地となった (横浜会場は約10万平方メートル) 。目的として「紀元二千六百年を奉祝記念する爲、内外産業文化の精華を蒐集展示し以て東西文化の融合に資し、世界産業の發達及國際平和の增進に貢獻するを以て目的とする」とした。
万国博覧会会場
東京会場マップ

4号地には勝鬨橋より正面に肇国記念館とし、向かって右に生活館、社会館、文芸館、その他主として精神文化に関するパビリオンを配し、向かって左には経済資源に関する各パビリオンを配置する予定だった。5号地の方は農林館、化学工業館、機械館、電気館等の産業関係のパビリオンのほかに外国特設館等を配置し、娯楽施設も予定していた。しかし日中戦争の激化により実質的な中止となり、万国博のメインゲートである勝鬨橋のみ建設された結果に終わりました。
肇国記念館
肇国 (ちょうこく) 記念館

万博のインフラ
万博での入場者総数を約4,500万人、最も混雑する1日の入場者を約50万人と推定し、これら多数の入場者を円滑に輸送し、その混雑を緩和するために都市の基盤整理が計画されていた。築地と月島の会場を結ぶ「勝鬨橋」を始め、会場付近の道路橋梁の新設又は擴築、市電の延長、最新型の渡船の導入などが予定されていた。
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会場への交通
勝鬨橋
建築中の勝鬨橋

1990年6月13日放送『あした発見』

紀元とは
初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とした日本の紀年法で、正式名称は「神武天皇即位記元」。通常は略して「皇記」という。明治5(1872)年に制定。皇記が多用されるのは昭和期になってからで、よく分かる例をあげると軍用機の名称にあたる。当時の日本の軍用機は採用年次に「皇記」の下2桁を冠する規定があり (例:九六式艦上戦闘機は1935年に試作機、1936年から生産。1936年は皇記2596年) 、零式艦上戦闘機が正式採用された昭和15 (1940) 年は皇記 (紀元) 2600年にあたるので、その下2桁の「00」から「零式」とされ、略して「零戦 (れいせん、ぜろせん) 」と呼ばれた。因みに「大阪・関西万博」が開かれる2025年は皇記2685年にあたる。

以上、次回に続く

昭和41(1966)年の8月頃辺りから万国博積立が各地で誕生した
「万国博を見よう」という呼びかけのもと、各地の金融機関で万博旅行積立が始まって、当時は話題を呼んだみたいです。大阪から遠距離に位置する地方銀行、相互銀行、信用農協などから始まったみたいで、その取扱い方法も様々ありました。例えば、4年間自動継続貯金することにより、利息で旅行するとか、元金と利息を合わせて旅費をつくるとか、とにかく金利が良かった時代です。今では考えれませんね。
当時の資料として第四銀行(現:第四北越銀行)が発行していた旅行預金のパンフレットを紹介します。募集期間が昭和42年5月~の物ですが、当時の様子がよくわかる資料です。
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第四銀行は新潟県に強固な経営基盤を有した銀行で、新潟から万国博と近畿の旅を提供するプランを立てていました。
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1・2コースは3泊4日、3コースは4泊5日で、観光を堪能して温泉(宿泊) も楽しめる豪華なプランになっています。アジアで初めて開催された万国博を当時の人々が心待ちにしていたことは想像に難くないと思います。
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積立プラン・利息プラン
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毎月2~5千円の積立を1~2年続けることで、旅行費とお小遣いの準備ができる夢のようなプランですね。
万国博がやってくる
パンフレットにある万国博の概要ページです。以前 (連載第4回) で紹介した「万国博がやってくる」のパンフレットで紹介されていたイラストが使用されています。中央口からシンボルゾーンに向かうイメージのもので、まだ太陽の塔が決定する以前のものです。会場西側 (水曜・木曜広場) に描かれた得たいの知れないパビリオン群に夢が広がります。
最後に当時の資料として長銀 (1998年に経営破綻) が、昭和45年に発行したリッチョー (長期信用債権) のパンフレットもUPしておきます。
長銀_万博パンフレット
長銀_万博パンフレット

以下、次回…。


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